鷹村は最近雨が嫌いだった。
ジムの後輩、一歩に言ってみると「センチメンタルな気分になりますよねぇ」などとふざけた返答を寄越されたので、彼は容赦なく後輩を殴った。似合わないと言って噴出した青木も殴った。ついでに木村も。
ちなみに本当の理由は水溜りである。
鷹村の住むボロアパートが、最近雨漏りがひどいのだ。 いや、天井から多少の水滴が垂れる程度ならば、鷹村は大して気にもしない。事態はそんな甘いものではない。
「玄関に水溜りが出来ちまうんだよ!」
苛立ちを爆発させ八つ当たりに青木の首を絞めた。薄情な後輩共はその様子を見て笑っている。睨み付けるとぴたりと真顔になる。非常に不愉快だった。
(他人事だと思いやがって)
昼間の雨なら警戒も出来る。 だが夜にこっそりと降られ、翌朝起きてみればロードワークに履いていける靴がない、ということも少なくはなかった。寝惚けて足を突っ込む事だってしばしばだ。
そうして今も、玄関には真新しい水溜りが、まるで罠のように鷹村を待ち構えている。夕方降った雨の置き土産である。一応靴は全て避難させたのだが、あの存在自体が腹立たしい。鷹村は畳に胡坐をかき、意味もなく水溜りを睨み付けていた。
不意に聞き慣れた声が響いた。そして要らぬノックの音。
「鷹村さーん」
(木村だ!)
今にも開かれそうなドアに、鷹村は慌てて駆け寄った。輝く瞳が、彼が良からぬ企みを得たことを示唆していた。
「あれ?いないんスかー?鷹村さうわあッ!?」
少しの隙間から顔を覗かせた木村の腕を勢い良く引く。よろけた所に追い討ちをかけるように背中を押した。完全にバランスを崩した木村は膝から水溜りへと突っ込む。ゴン、といい音がしたのは、木村が床に頭をぶつけたせいである。
悪戯の成功に、鷹村は子供のように喜んだ。ただし邪気たっぷりに。
「ぶわはははは頭までぶつけやがってー!トロイ奴だな、いいザマだぜ!」
指を差し抱腹絶倒する鷹村に、温厚な木村も流石にキレる。
「いきなり何しやがんだよテメーは!ガキじゃねぇんだからつまんねーことして喜んでんじゃねーよ!」
キレてガキ呼ばわりする木村に鷹村もキレた。
「うるせぇ!人の不幸を笑ったキサマが悪い!」 「そりゃ青木だろーが!オレは笑ってねぇぞ!」 「一緒にいたんだから一緒だ!」 「どーいう理屈だよ!」
激しい言い合いが長く続くはずもなく、当然のように元ヤン二人の喧嘩は掴み合い殴り合いにまで発展する。そうなれば木村の敗北は確実だ。然程経たずに争いは終結し、木村はらしくもなくキレてしまったことを後悔したようだった。その服はすっかり汚れて所々濡れている。ズボンに至っては目も当てられない悲惨さだ。
「…で、何しにきたんだよ」
流石に少々気まずいが、謝る気にもなれず鷹村が訊く。のろのろと立ち上がった木村は、ドアに凭れて溜息を吐く。
「…別に用があったわけじゃ」
ない、とおそらく言いかけた木村は、彼自身の下半身に目を落とし悲鳴を上げた。鷹村も釣られて目を移す。ズボンの膝下がぐっしょりだ。
いやそれではない。それではなく股間が。
「木村…!テメェいい年して…!」 「馬鹿やろう!水に決まってんでしょうが!…ッ、ああー」
帰れないだのくるんじゃなかっただの喚いて頭を抱える木村を前に、鷹村の方は腹を抱え笑い転げている。一頻り「お漏らし!」を連発し罵った後、恨めしげに立ち尽くす木村のベルトに手を掛けた。はっとしたらしい木村が警戒の色を見せる。
「な…何スか?」 「どうせこのままじゃ帰れねんだろ?乾かしてやっからよ」 「自分で脱げまから」 「オレ様がやってやるって言ってんだ、遠慮すんなよ。…なぁ、用もなく、何しにきたんだ?」
顔を近付けて耳元に囁くと、木村は一瞬だけ目を泳がせ、不快そうに眉を寄せた。だが僅かに染まった頬は誤魔化しようがない。
「…水溜りを見に」
見え透いた苦し紛れは無視して、鷹村は木村を引き寄せた。
拍手レス 初出 2006. 01. 31[Tue]
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